コーヒーが美味しいと生きるのが楽しい

何のために生きるのだろう。

ということを、思春期の頃とは違った角度から、大人も悩んだりする。

思春期の頃だと、自分は一体誰に特別に思ってもらえるのだろうとか、自意識と世界の大きさの違いに戦いたりするものだけれども、大人になると、変わり映えのしない日々を続けていくことに疑問が浮かんでしまったりするものだと思う。

年齢を重ねれば重ねるほど、未来の可能性というものは閉ざされていくわけで。

夢を追う、なんていうのは若者の特権で、大人になってから夢を追うのは、リスクを考えて尻込みしてしまう。

コーヒーを好きになると、やっぱりカフェで働いてみたくなったり、焙煎士に憧れたり、自分の店を持ってみたくもなったりするけれど、カフェの店員さんは案外扶養の範囲内での求人が多いし、焙煎士なんてたゆまぬ努力と勉強の出来る環境のほかに、やはり才能も必要なんじゃないかと思う。自分の店を持つに至っては、開業資金、飲食店の営業許可、コーヒー以外にもスイーツやフードメニューも作らなければならないし、店員さんを雇うには知らなければならない法律がたくさんあって、お金のこともややこしくて、第一、経営というのは難しいだろうということが真っ先に頭に浮かんでしまう。

コーヒー以外の趣味を持っている人も、きっと似たような感情を経験しているんじゃないかと思う。

本が好きなら小説家に憧れたり、歌が好きならミュージシャンに憧れたり。

それは子どもも大人も等しく見ることの出来る夢だけれど、そこで夢だけを見れるか、リスクを考えてしまうかは大きく違う。

大人はリスクを考えて、現状維持を選んでしまう。

そこで夢に向かって一歩を踏み出せるのは、「選ばれた一握りの人だけなのだろう」と思って。「自分は一握りの人ではないから」と諦めて。

そうして今日も満員電車に揺られて(最近は満員電車でもないですが)会社人の仮面を被り、そのまま一日を終える。きっとこれを何年も。


何のために生きるのだろう。

それは刺激の少ない平坦な日々への飽きから来る感情かもしれない。

先週と同じ今週が来て、きっとこれを来年の今も続けて。十年後はもしかしたら違うかもしれないけど、なんとなく「今」が「ずっと」続いていくような気がする。

結末までのネタバレを知ってしまった推理小説を読む気がしないように(それでも読む人にはごめんなさい)すっかり予想の付いた、好奇心の満たされない毎日には、価値がないように感じてしまう。


さて、そんな毎日の中に、一杯のコーヒーがある。一杯だけじゃないかもしれない。二杯や三杯かもしれない。

とにかく、カップに入ったコーヒーを飲む機会がある。

私の場合、このコーヒーは「刺激」だ。変わり映えのしない日々の中の、数少ない「変化」だ。

コーヒーは産地ごとに味が違うからとか、同じコーヒーでも淹れ方によって味が変わるからとか、一つとして同じコーヒーはないだとか、そういうことを言いたいのではない。

むしろコーヒーはどこかで変化をしなくなる。気に入りの店を見つけた時、そのコーヒーは確かに「新しい喜び」を連れて来てくれる。しかし、そのコーヒーを買い続けていくと、いつしか新しかったはずの喜びはまた平坦になってしまう。

まるで入社をした時、異動をした時、昇進や昇格のあった時に変化を感じても、いつしかこれが「先週と同じ今週」になってしまって「きっと一年後も同じことをしているのだろう」と思ってしまうように。

ではコーヒーの何が刺激であり、変化なのか。

ここで自然を想像してみよう。朝が来て、昼が来て、夜が来る。空が青くて、星空は暗い。雲は白くて、夕焼けは赤い。ビルに切り取られた空はいつも狭くて、あまり四季も感じられない。あなたの暮らす町の一日の風景は、「平坦」に分類されるのではないだろうか。

そんな平坦の中の、特別な一瞬を想像してみよう。路地に映えたシロツメクサに、朝露が光り輝く光景雨上がりの空に虹が架かった様子冬の寒い朝に煌めくダイヤモンドダスト

世界には、はっとするような一瞬の煌めきがある。それが見れただけで、生きていて良かったと思うような。そこまでではないにせよ、今日は良い日だと思えるような。

コーヒーもそうなのだ。

いつもと同じように淹れたコーヒーは、銘柄の違いこそあれど、味はだいたい同じ範疇に収まる。

自宅で淹れていれば、いつも新鮮な豆を使えるというわけでもないので、購入してしばらく経つと、味もだんだん落ちてくる。平坦だ。

そんな中で、偶然何かの拍子に「あぁ!」と声を上げてしまうような、美味しいコーヒーが出来てしまう時がある。ダイヤモンドダストだ。


もっとコーヒーを淹れるのが上手なら、また違うのかもしれない。毎日があっと驚くような美味しいコーヒーと共にあるというのは、どういう人生なのだろう。

贅沢は「たまに」するから良いのか、それとも毎日でも嬉しいものなのか。


閑話休題。コーヒーは変わり映えのしない毎日の中で、たまに「はっとする」のだ。

毎日が変わらないから、生きている価値を感じられない?

なら、コーヒーがはっとさせてくれるなら、生きるということが、ただ永遠をやり過ごすというだけではないと思えるのかもしれない。

「来月の新刊が楽しみだから。そんな簡単な原動力が子どもや僕らを生かす」

辻村深月『凍りのくじら』

これは私の好きな小説に出てくる台詞の一部だ。

この時は確か、漫画か小説の話をしていた。好きなシリーズの続きかもしれない。好きな作家さんの、続きものではない単行本かもしれない。まだ読んでいない、はっとするかわからないけれど、きっと楽しい新刊が待っている。たったそれだけのことで、じゃあ生きよっかと思える人が居る。

わかるんだよな、これが、すごく。

大人になって、あまり本を読まなくなった。楽しみにしていたはずの新刊は、そのうち買って、けれどしばらく積まれたままになっている。だから、今の私にとってはこれは本の話ではない。

コーヒーなのだ。

はっとさせてくれるコーヒーがある。

気に入りの店のコーヒーも、いつしか平坦になってしまう。けれど、やはりコーヒー豆を買う瞬間、オンラインで頼んだならそれが届くまでの間。「来月の新刊を楽しみにする」ような気持ちで、ワクワクするし、飲むのが楽しみなのだ。

大好きな豆が届いて、冷凍庫に入れてある。これを明日の朝に飲むことができる。

そう思っていると、明日が来るのが少しだけ楽しみになるのだ。


最近我が家にある豆は少し古くなってきていて、毎日ちょびっと美味しくない。

平坦で飽いていて、だから人生も楽しくないような気がする。

けれど今日、偶然その少し古くなっていたはずの豆が、美味しく淹れられた。

私ははっとしたし、次にはっとする瞬間がまた楽しみになった。


世界のどこかから、私達にコーヒーを届けてくれる人達が行っているのは、こういうことなのだ。

ただの嗜好品? そんなはずはない。

誰かの生命を、積極的に強く引き留めるようなことは滅多にないにせよ、小さく、小さく、明日を迎えるための活力を与えてくれる。

コーヒーが美味しいと、生きるのが楽しくなるのだ。

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